「電車のルール」20228月24日

どうせ誰もみていないのだから気まぐれにやめても良いし、気まぐれにまた書いてみてもいいのだ。やはり、ブログに書かないと必然的にツイートの量が増えるし、何となくずっと頭のメモリをしょーもないことで占めている気がする。ずっと眠いの二歩手前みたいな気分なのも、そのせいかもしれない。

 

日記を書かなかった間、まぁ色々あったと言えばあったが、まぁ些事である。今回書こうと思ったのは電車に乗る時に己に課しているルールの話で、ツイートしてもよかったのだがちょっと長くなりそうなのとちょっとキモくなりそうだなと思ったからまぁここで書いとくかと思い至ったから。あと、ツイートはなんとなくオチをつけなきゃいけない気がして、自分の考えを素直に書いているだけではダメでもう一つの「盛り」が必要になってきてしまうから、将来それを読んだ時にどこまでが真実かが分からなくなってしまうというのもある。30フォロワーくらいいるリア垢だが、実際は3人くらいに向けてしかツイートをしていない。しかし、そうだとしてもやはり人に見られているなという意識は拭えないわけで、それが知り合いであれば尚更オモシロを意識してしまうのだ。

 

さて、電車に乗る際のルールの話だが、人がやっているのを見ていて恥ずかしくなったことはしないということだ。時間をおいて書くとなるとかなり恥ずかしいな…。例えば、端の席が空いたからといってスライドして座らないだとか、立っているときにあまりに離れた席には座らないとか、足を一度組んだら人が通るとしても足首を曲げたり崩したりしないといったことだ。基本的にがっつきと周りの視線に影響されたくないとの考えから出てきている行動ではあるのだが、その思考自体が視線への感度を高めているような気がする。

 

こういった若さゆえのセンシティブさも歳をとるごとに失われていくのだろうし、それは決して喜ばしいことではないだろうと今の自分は思う。自分はあまり我慢強くない性質であるということは重々承知しているわけだが、その上で、他人と社会生活を営んでいくならある程度の我慢は絶対に強いられる。その為には例えば法律によって縛られることで自分の行動を制限することが必要なわけだが、もう少し込み入った部分、一般的にはモラルによって支配される行動に対しての拘束が自分にとっては非常に緩いのではないだろうか。その代替として、「ダサさ」を基準とした別のコードを用いることによって現状はなんとか凌いでいるが、そもそもそのコードはモラルとは違うものであるので齟齬が生まれるし、それすらも歳を重ねればどうでも良くなるだろうなという確信めいたものもある。そういうどうでも良くなった老人を防ぐために、社会的な関係性が要請される側面もあると思うが、多分結婚もしないし、友達もいなくなるので、十中八九俺はやばいジジイになります。世のやばいジジイはこうして生まれるわけだ。そしてそうなってしまったらそのことに自覚的であるか否かに関わらずそれを容認してしまう気もする。これを批判するのは「ダサコード」に則った現在の俺自身な訳だが、それは果たしてどれほどの説得力を持つのだろうか。